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お酒のいろはにほへと

人の技と自然の力

いい水、いい米、そして優れた人の技。これらの要素がすべて揃わなければ、極上の銘酒は、生まれない。美味なる酒は、福岡で生まれる。酒造りという文化が花開いた、全国有数の酒どころ福岡。珠玉の雫が今日も生まれます。

博多焼酎学大全

元禄三年。貝原益軒も絶賛した筑前の優良酒。

pic_02_01.png「福岡の酒がうまい」という話は、はるか江戸は元禄、五代将軍徳川綱吉の時代にさかのぼります。筑前(今の福岡県)の儒学者、貝原益軒は元禄末期の福岡の酒を『優良、上国の佳産に勝るもの』と評したといいます。さらにその貝原益軒が自ら編集した『筑前国続風土記』によると、元禄三年の筑前には造り酒屋が六一三軒あったというから、その隆盛ぶりには驚くばかり。そんな福岡の酒の永き歴史にしばしお付き合いを。

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福岡の酒の人気に火をつけたのは西郷隆盛だった?

pic_02_03.png時は明治。ようやく幕末の動乱も落ち着きをみせ、にわかに福岡の蔵元も活気を見せ始めます。その勢いをさらに加速させたのが、明治一〇年に起った、あの西南戦争。西郷隆盛を擁する薩摩軍と官軍との熊本城や田原坂での激闘の際に、官軍の前線で士気高揚に用いられたのが福岡、特に筑後地方の酒だったとか。その後の日清・日露戦争などの好景気もあり、酒造会社は銀行や鉄道、酒づくりの水を引くための水道会社までも設立。つくっても、つくっても足りない...そんな戦争景気に沸いたといいます。

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県の役人に変装して視察。三人の志士、灘へと向かう。

pic_02_04.pngところが、その頃の福岡の酒は、品質や風味で灘・伊丹あたりのいわゆる「上(かみ)酒」にかなわず、西南戦争後は苦戦を強いられていました。
その危機に乗り出したのが宇美の栄屋小林作五郎氏。
なんと彼を含む三人の蔵人が灘の酒づくりを探るべく役人に変装し、福岡県収税長の山形修人氏に同行して視察へとむかったのでした。いざ酷造場に入ると無我夢中に観察する小林氏らの、およそ役人らしからぬ様子はさぞ風変わりであったことでしょう。しかし、この視察を機に、彼らは福岡の酒づくりに一筋の光をみいだしていくのです。

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